『灰羽連盟』のかんそう

一昨年も去年も年末は『灰羽連盟』というアニメを観ていた。今年は多分見る時間がない。

 

僕がこの作品で好きなのは、「この世界(グリの街)とは何か?」「灰羽(私)とは何か?」といった形而上学的な問いが放棄されているところだ。序盤中盤ではこうした問いが散々仄めかされるけど、最後まで答えは出ない。

 

東浩紀の『存在論的、郵便的』4章の図を引用してみる。ここは「論理」がメタレベルに置かれ、「命題」がオブジェクトレベルに置かれる。世界における事柄を記述するのがそれぞれ「命題」であるが、それらが自然に従っている「論理」を記述することはできない。

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このモデルにおいて『灰羽』で問われるような「形而上学的な問い」は意味をなさないだろう。それらは有意味な命題ではないからだ。

 

こうした論理実証主義における「論理」と「命題」の関係は『灰羽』における「形而上学的な問い」と「存在者(登場人物)」の関係に似ている。

「論理」を「形而上学的な問い」に、「命題」を「存在者(登場人物)」と置き換えてみる。すると、こうした問いに答えを出すことの不可能性がわかるだろう(厳密にはウィトゲンシュタインにおける形而上学的な問いと「論理」の位置付けは違うのだが)。世界そのもの、灰羽世界を成り立たせているシステム、こうしたメタレベルの問題は問えない。ウィトゲンシュタインの言葉を借りればそれらは「神秘」としてある。僕が『灰羽連盟』を好きなのは、この「神秘」が語られず守られているからだ。

 

そしてむしろ、このメタレベルの問いに答えてしまうのが多くのアニメでありフィクションだと思う。現実では無理でもフィクションなら世界の存在理由に答えを出せてしまう。

 

ところで灰羽の世界というのは、象徴秩序としてのグリの街。交換によるカオスの流入(トーガ)。こうみると閉鎖系作品を、象徴秩序の持続(orその解体)と読むことは十分可能だと思う。

 

メモ書き

■「閉鎖系」作品全体、と言えるかどうかはわからないが、少なくとも灰羽における世界というのは入れ物的な感じがする。街という箱庭が最初にあってそこに存在者がいる感じ。

逆に「セカイ系」における世界は、私が存在すること=世界が生起することというようなイメージがある。エバなんかを見てるとそう思う。ハイデガーぽさがある。前期の手段的、目的的な世界ではなく、中後期の。自分が変われば世界が変わる、といったような話は前期っぽい。